ニコ生バトレボ環境の変遷
2016-01-23
ログおきばの「バトレボオフ使用構築から振り返るDPシングル環境」の記事を読み、環境の変遷の解説の面白さ、また当時バトレボプレイヤーであった自分のそのようなオフ対戦環境への羨望の記憶が蘇りました。そしてニコ生バトレボ環境の変遷について振り返るきっかけとなるとともに、環境の変遷が文章として残っておらず当時のプレイヤーの記憶のみであることに気付きました。大規模な対戦コミュニティであったニコ生バトレボ環境がこのまま忘れ去られていき、記録として残らないのは当時のプレイヤーとしても悲しいことであるのでここに記事として残したいと思います。
参入時期が遅く、ニコ生バトレボ対戦環境の中心でないプレイヤーの自分がこのような総括をするのはおこがましいことかもしれませんが、ニコ生での対戦コミュニティ形成に尽力したプレイヤーと多少なりとも繋がりもあり(特に閉鎖的なmixiの過去情報を確認できるなどの記事を書く上での利点)、当時を記憶しているプレイヤーも少なくなっていることから今確認できる限りの環境の変遷を書いていきます。
ついでに、後に残る文章で情報公開したこともあって現在のバトレボ民にも多少は知られているダグダースやゲンガードランナンスがどのような時期にどのような意図で生まれた構築なのかもある程度詳しく触れていきたいと思います。
情報の共有が同時期になされているわけではなかったため、当時のプレイヤーから見てもおかしい点や時期が異なる点があるかもしれませんが、その点を含めて楽しんで読んでもらえると幸いです。特にHGSS前はmixiでの情報も少なく、Ustreamにある録画を視聴した記憶に基づいているので時期の特定が怪しいです。
長くなってしまったので大きな変遷を先にまとめておきます
・2006年12月 バトレボ発売
・2009年3月~ ニコニコバトレボ実況者大会開催、対戦環境形成期
・2009年9月~ HGSS発売、ニコ生定期的バトレボ大会のはじまり、催眠自重環境
・2010年5月~ 催眠実質解禁環境
・2010年9月 BW発売によるニコ生バトレボ対戦環境の衰退
初期は仕様の多くが異なる同時期のオフの情報を中心に吸収していましたが、徐々に独自の環境がつくられていくようになったこともニコ生バトレボ環境の特色としてあげられます。
また配信者の影響が強い環境でもありました。
【はじまり】
2006年9月28日にポケットモンスターDPが、その3ヶ月後の12月にバトレボが発売されました。ここからバトレボ環境が始まったともいえますが、まだはじまっていないという解釈もできます。
対戦環境とは定期的な対戦を通じて構築を洗練させていく機能をもつという見方から見れば、バトレボはポケモンシリーズでは初めてオンラインのランダムマッチングが実装されたゲームですが、そこには目に見える形でのレートがないために競争原理が存在せず、当時はネット社会が未熟で対戦相手とのやりとりの場が限られていたために、バトレボ対戦環境は形成されていなかったのではないでしょうか。
wiiを購入しなくてはならないというハードルから競技人口が少なく、手軽さという点ではバトレボに劣るものの初期のオンライン上の対戦環境は対戦掲示板によるDS対戦が対戦相手とのやりとりも可能であるために主流であったと推測できます。
【ニコニコ動画の進展】
変化の兆しを見せたのが2007年3月のニコニコ動画での動画投稿サービスの開始です。映像や音楽の優れているバトレボは動画として見栄えがよく、初期から投稿されていました。この段階ではエンターテイメント性が重視され構築も中堅ポケモンが多かったことや投稿者や視聴者とのつながりがほぼ無いに等しい状況だったために対戦環境がニコニコに生まれたといえませんが、バトレボの潜在的人口を緩やかに伸ばしていったと考えられます。
2008年9月にはPtが発売されてDS対戦とバトレボ対戦の仕様が同一のものではなくなりました。元からレベル制限に関係なくバンギラスやヒードランが使えるといった違いは存在していましたが、まだ対戦環境が形成されていないために特に大きな出来事というわけではありませんでした。
ニコニコ動画では2008年に実況動画ブームが起きていました。たとえば有名な幕末志士の「緑の悪魔」シリーズは2008年の12月に投稿されています。その流れにバトレボ動画も乗ることとなり徐々に実況動画は増えていきました。さらにニコニコ動画で羅刹ラジオなどといった実況者間での繋がりといったものが見られるようになり、ニコニコ動画でのバトレボ動画実況者間コミュニティ形成の土壌が徐々に固まっていきました。
そして2009年3月にニコニコ動画実況者大会が開かれます。ここで勝利を目指す明確な目的が生まれました。たいていの実況者は中堅構築でしたが、中には普段より強いポケモンを入れた構築で対戦し、その動画によっていわゆるガチ対戦への渇望が視聴者・実況者に芽生えました。そのような強ポケモンを許容できない視聴者が無視できない数存在したために、それ以前よりUstream等の配信サイトで視聴者との双方向なやり取りをしていたバトレボ配信者とともに、2009年1月に開始されたユーザー生放送へと夏ごろ徐々に移住していくことになりました。移住したニコニコ生放送の配信者はフレンド対戦を気軽に受けており、そのことが対戦環境の形成を進めた要因ともいえます。
この時期は
・まだ乱数調整が一般的ではないことから登場した図太い耐久サンダー
・上記の対策のための役割理論より鉢巻ドサイドンの採用
・オフ勢の配分の模倣をしたポケモン
などと幅広い既存の知識を吸収し、小規模ではあるものの配信による対戦コミュニティが確立されていきました。当時はサイクル重視の構築がよく使われ、眼鏡ラティオスを被害少なく処理する手段がほぼなかったために、慎重HD追い打ちハッサムも使われていました。
2008年の11月にエメループが解析され、2009年の夏までにはDPの乱数調整も可能となりました。当時はまだ乱数に対する抵抗感もあったため、少数にはなったものの理想個体による対戦の土壌もできたのです。またHGSS環境前にトビゴンが登場してあくびが実質解禁されました。
他に目を向けると、ニコニコ動画では2009年6月の厨ポケ狩り講座の投稿や8月に登場した役割論理のブームが後のバトレボ人口増加に大きな貢献を果たしました。結果として役割論理が揶揄した役割理論のサイトが注目されることとなり、サイクル重視の考え方が深められることになりました。またバトレボ動画による裾野拡大がニコ生対戦環境の人口の増加に繋がるという流れはこの後も継続されていきました。
対戦コミュティ内の繋がりという側面では、2008年4月に日本でのサービスが開始されたTwitterの知名度が2009年夏ごろに各メディアで紹介されたことから急上昇しました。閉鎖的なmixiやSkype等が最後まで主流ではありましたが、ニコ生バトレボ界隈でも2010年の1月辺りにTwitterの登録が増え、配信者でないプレイヤー間を含む対戦コミュニティ内の繋がりが強化されていく大きな要因となったのです。
【HGSS発売】
2009年9月にHGSSが発売されました。これによってバトレボ環境でもバンギラスやヒードランが実質解禁されることとなりました。バンギラスが増加したのもオフの結果を受けてのことであり、まだ大部分はオフ環境の後追いで知識を吸収する形ではありましたが、一部でバトレボ独自のポケモンが徐々に生まれはじめました。代表的な例では、おいうち成功時にこだわり解除されるおいうちバグを利用した拘りおいうちです。これによりサイクル重視環境でありながらもポケモン交換に介入できる技を入手したバトレボ環境は独自発展することになりました。
HGSS発売後入手しやすくなるとともに、すぐに解析された乱数調整の影響もありスイクンサンダーラティオスの急増化。この時期特有の準伝ポケモンとしてはスカーフファイヤーもかなり使用率が高かったです。やや遅れてバンギが増加し眼鏡ラティオスは減少したものの、後出し追い打ちで処理してくるバンギやグロスをみがわりから突破する珠草結びめざ炎ラティが当時活躍していました。
対戦環境形成の側面ではこの時期大きく発展しました。先行してHGSS前から開催されていたまふろ杯の影響を受け、9月にこばと杯が開催されました。こばと杯はニコ生バトレボ環境の定期大会として位置づけられ、対戦コミュティ内の明確な目的の樹立によって対戦環境の規模を広げていきました。そして第一回から65人が参加した全13回のこばと杯は最後には210人の参加者を集める大規模大会へと成長しました。この時期に生放送をはじめた配信者も多く、こばと杯を中心に数多くのオンライン大会が開かれるようになっていきました。
【結論パ】
2009年の12月にはガブバンギグロスの3体が入った構築が主流になり、その後にガブバンギグロスサンダースイクンマンダという形の構築が結論パと呼ばれるようになりました。催眠自重環境でこの構築に優位をとれるポケモンや組み合わせが考えられていきました。催眠解禁環境になった後もこの構築の個々の種族値の高さなどから好む人が多く2010年5月に結論パ統一大会が開かれました。また2010年7月のニコニコ動画にて結論パの紹介動画が投稿されたことからランダム対戦での数は増え、最後まで結論パの組み方を土台とした構築は増えていきました。
特徴として特に初手サンダー率が異常に高く、後ろのバンギラスを含めてどのように対処するかを模索されていた時期でもあります。催眠解禁後もサンダーが催眠対策として有効であったため、この傾向は最後まで続きました。
結論パの対策の流れの一例として全体的に優位をとれるマンムーの採用数が増え、それに対応するためにドータクンが採用されるようになりました。後続への負担が小さいドータクンは催眠術を採用せざるを得なく、流し際の催眠術が多くなりましたが、まだ対面催眠自体は数が多くなく、催眠対策が勝率を大きくあげるまでとはいきませんでした。もちろんドータクンを起点に優位をとるポケモンの開拓はすすめられていたのでドータクンの催眠対策は進んだともいえます。
ちなみに催眠自重環境が長く続いた要因として一つ考えられるのは、目的が勝率を高めることよりはトーナメントによる優勝でありさらに大規模化したために長い連勝が求められ、対面催眠を主体としたヤンマのようなポケモンは好まれて採用されなかったことがあげられます。
結論パ側は重いマンムーをどうにかするためにマンダの枠をゲンガーにする構成をみられるようになりました。しかし当時のゲンガーの催眠術率は低く、技は道連れや襷カウンター、みがわり鬼火、持ち物は拘りや珠、ヘドロなど催眠術を使わないゲンガーの中で適合するのはどの型なのか試行錯誤していた様子がうかがえます。この試行錯誤の末、催眠自重環境の緩やかな変化とともにヘドロゲンガーが誕生したともいえます。
他にも(うまく流れをまとめることができないので箇条書きにしますが)
・ハッサムに繰り出されるポケモンの拘り率の高さから机上論ハッサム(2010年3月)
・ラティハッサム
・珠ウドハンでバンギラスを処理するユキノオーの台頭
・バンギラスで確実に優位をとれなくなったことを背景にノオーガブブーム
・初期は帯ギャラであった、後の珠ギャラ(2010年1月付近?)
・ガブミラーで打ちやすい流星群入り襷ガブ(2010年2月)
が2010年に入った時期から広まり徐々に増加していきました。
特に最後のガブリアスの流星群を耐えるC無振り特殊スカーフボーマンダまでも登場し、火力の低くなったマンダに対してバンギラスの後出しからの追い打ちで処理をするというプレイングがリスクの低い行動として扱われていた異常な状況でもありました
ダグダースもほぼ同時期(2月)の構築です(実際の認知度が高まったのは2010年の7月にいばみがでじわじわと削られていく対戦が配信者の諦観と沈黙とともに配信されたことがきっかけです)。催眠ターンが2〜6であったことがよく知られていますが、バトレボの混乱も2〜5ターンと長かった仕様を最大限活用した組み合わせです。サンダース自体は先発性能が高いポケモンではありませんが、当時の初手サンダー率の異常なほどの高さが先発の安定性を担保していました。
また催眠が実質解禁されていない時期でラム持ちがサンダーのみであった点もダグダースにとって追い風でした。残るはノオーハッサムとスカーフ持ち(主にヘラクロスやボーマンダ)を意識すれば十分で、前者はダースのめざ炎や残りのポケモン、後者はイバンあくびカウンターラグラージを先発としておくことも視野に入れて対応しました。特に相手が交換した場合にはイバンの実が発動しない仕様であったので、後出しからイバン発動圏内にさせイバンあくびからダグトリオにつなぐことができるコンボパーツとしてイバンラグは機能していました。
催眠術がほぼなかったことでナンスが自由に動きやすく、かつナンスを起点にゲームエンドまで持っていくポケモンがいなかったため(たとえばこだわりどくどくでナンスの対処が可能であった等)、ナンス関連の立ち回りが未熟なプレイヤーが多い時期でもありました。そのためこの時期のダグトリオは相手の立ち回りミスからゲームエンドを狙える珍しいポケモンであり、ナンス関連の立ち回りミスからゲームエンドまで持っていくという考えは後のゲンガードランナンスやとおせんぼうドサイドン(ネタポケではありますが)にも共通しています。
【催眠自重環境の変化】
そして今まで催眠自重であった状況は、影響力の強かった一人の配信者が2010年の4月にクロバットを使い始めることをきっかけに緩やかに変化していきました。確かにマンムーの増加から採用数が増えたドータクンの催眠術の採用数はそれまでも多かったのですが、それは流し際の催眠であって対面から催眠をうつというポケモンはあまり使われていませんでした。そこに耐久の高いクロバットは外しリスクの小さい催眠であるために対面催眠が対戦環境に馴染んでいきました。
とはいえクロバットの採用数自体は低く、この時点では催眠解禁環境とは言えませんでした。ですがなにより影響力のある配信者が対面催眠を主体としたポケモンを使用したことで催眠を使用してもいいという催眠肯定的な意識が芽生えたというのが催眠解禁への移行にとって大きかったと思います。
その催眠肯定という流れを受けてゲンガードランナンスという組み合わせを含む構築を2010年4月に組むことになりました。その時点では相手の催眠ゲンガー自体の数も少なく、火力のある珠催眠ゲンガーを比較的自由に動けるナンスの補助を受けながら使用することができたのです。ナンスの補助技アンコールからのみがわり催眠展開は当時、絶対的な威力を放っていました。
よくいわれるように同時期に増えつつあるギャラドスが刺さっているとの指摘は構築時から受けていました。しかしギャラドスの中心の型はドータクンを意識したラムみがわりギャラ、帯or珠ギャラであって挑発竜舞の絶対数は少なく、ナンスを使う上でのリスクとして受け入れていれながらギャラドスに後出しすることも視野に入れていました。ギャラドス側が対処を間違えて、竜舞を縛られるとそこからみがわり催眠展開されるといったこともあり、ギャラ側の組み合わせ次第といったところです。
後に触れる5月の催眠解禁後ヤンマやゲンガーが流行してから使いにくくなったものの、7月のチーム戦で同チームの複数人がゲンガードランナンスを使用して優勝したことで組み合わせの知名度が上がりました。構築自体の使用者数は少なかったもののバトレボ最終期であるこばと杯ファイナルであってもナンスに対するプレイングミスからの展開が効果的であったこととトッププレイヤーによる構築の改善によって最後の環境まで生き残った構築でした。
ソーナンスに関しては催眠解禁前に対面から優位をとれるポケモンがヘラクロスしかいないという圧倒的な強さを誇りながらも評価も使用率も低い状態でしたが、徐々にその強さが認識されました。催眠解禁後からはゲンガーに起点にされるリスクを抱えることになったのですが、最後までその数を増やしていくことになりました
またヒードランの型はそれ以前ではスカーフがほぼメインであり、催眠解禁後は寝言入りやどくまもなどといった形が中心となって使われていたため、当時では眼鏡をもつことでサンダーに対する奇襲性が高く、初手での処理が可能な時期でもありました。
4月付近では、スカーフや珠などの型が増えたことによるユキノオーの対処の難しさがその強みを支える形でユキトドブームがはじまりました。トドゼルガのパターンに入らせないポケモンの模索もこのあたりで活発になり、例えば蜻蛉帰りでノオーを処理しつつもトドの起点にならないAの数値が高いハッサムの評価が上がっていきました。
【催眠解禁環境】
そして5月に先行したメガヤンマブーム、ヘドロゲンガーの台頭からの後の流行より催眠自重環境が完全に破壊され、催眠環境がはじまります。相手の攻撃を一度は耐える耐久からのリスクの小さい催眠ポケであり、マンムーやヘラ、ナンスなどといった対処に困らされたポケモンに強いことから多くの構築で採用されました。特に結論パのマンダの枠をそのままヘドロゲンガーにすることが自然にできたのも使用率の増加の要因であったと思います。
催眠が増加したことでようやく、露骨な催眠対策が勝率をあげることに貢献するようになったために、ラムや寝言持ちサンダーとこだわり寝言以外の催眠対策が採用されていくことになりました。例をあげるとラムしっぺやスカーフ寝言シフトキッスなどです。
催眠+バンギも流行しました。初期はゲンガー+バンギ(+ナンス)のみでしたが、後にサンダードータクンバンギもサイクル回すならば優位をとれる組み合わせとして注目されることになりました。特にサンダーは初手ミラーや後ろからのバンギラスを意識した眼鏡雷の採用が比較的みられました。このサイクル戦に強い構築や催眠の登場から当時比較的サイクル重視だったバトレボ対戦環境が変化し、電磁波砂などといった展開構築も徐々に数を増やしていくことになりました。
脅威的な抜き性能をもつ珠ギャラドスは、スカーフヨロギサンダーやシュカ雷パンチグロスによる対策で数を抑えていましたが、上記のサンダードータバンギや電磁波砂の台頭から一時期は大爆発をもたないこともあったグロスの爆発率の上昇と前からあったグロス自体の使いにくさをさらに意識させられるようになっていきました。珠ギャラはその数を抑えていたポケモンの実質上の弱体化と減少により最後まで数を増やすこととなりました。
2010年の6月に零度スイクンが登場し、多くの構築で採用され零度が飛び交うようになりました。特に当時数を増やしていた珠ギャラをみるためにめざ電を入れた型が多かったと記憶しています。また零度スイクンに対抗できるみがまも毒やみがわり瞑想スイクンもこの時期多く使われるようになりました。
5月の催眠解禁、6月の零度スイクン解禁と短期間で大きく環境が変化したニコ生バトレボ環境は大いに混乱しながらも、その混沌を楽しみつつ終焉を迎えることとなります。2010年8月のこばと杯、9月のまふろ杯といったニコ生バトレボ環境形成期初期から尽力した2つの大会が終わり、BW発売をもって人口がそちらへ流出することでニコ生バトレボ環境は衰退することになったのです。
※ログおきばの「ミロカロスがなぜ当時流行らなかったのか」について
自身の解釈に過ぎませんが、催眠環境期間が短くミロカロス入りの実績のある構築がまだ出ておらず、研究不足が最大の要因と解釈しています。
特に
・眼鏡を含む初手サンダー率の高さがラムミロカロスによる先発性能開拓の可能性を下げていたこと
・スイクンをガブリアスやギャラドス、メタグロスなどのポケモンを誤魔化すためにかなりの構築で使用されていた(こごえる風スイクンの使用率が高かったことがその傾向)
によってミロカロスの選択肢がオボンしかみえておらずスイクンの劣化になっていたことが研究不足につながりました。
しかしナンスやドータクンが流行していたことやゲンガーによってヘラクロスが全盛期よりは減少していたこと、相手のバンギラス絡みの組み合わせでスイクンに高負荷がかかっていたことなどから考察の余地はあり、実際に終期で活発になったぬけがら構築考察でナンスに投げる2枚目の選択肢として単体でも動けるミロカロスがあげられることもあったため、研究がすすむ未来はあったようには思います。
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